神田上水掛樋の碑 堰の模型 神田上水由来碑
(左)水戸屋敷から地中の導水管を伝ってきた水は、掛樋と呼ばれる水道橋で神田川を横断。駿河台方面へ給水していました。その掛樋があった場所には記念碑が (中)江戸川公園内には、関口大洗堰に実際に使われていた石版を使ってのミニチュアが作られています。その傍らには(右)神田上水由来碑が。 この碑文は戦時中一度廃棄されたものを復刻しています

日本初の本格上水道

 

 家康の江戸入城から今日まで、発展を続けてきた東京。その歴史の中で、神田川は飲み水を供給する上水として、重要な役割を持っていました。近世江戸を支えた神田上水です。 家康は、江戸入城にともない上水道の整備を大久保藤五郎に命じました。藤五郎は、小石川(現在の後楽園のあたり)の流れを利用し、この水を小さな堀割で駿河台方面へと流しました。 これが、江戸の上水道の始まりであり神田上水の原型と言われています。藤五郎はこの工事の功績により、主水の名を授かりました
 徳川幕府の発展と共に、江戸の街も大きくなってきます。三代将軍家光の頃には、江戸は数十万の人口を抱えるようになり、上水設備の拡張工事が行われるようになります。 当時は、いくつかの自然河川が江戸の街を流れていましたが、その中で最大の河川だった井の頭池を水源とする川(つまり神田川です)を利用して、神田上水が作られます。寛永六年のことです。 江戸への供水は、目白下関口に設けられた堰で取水して、堀割を伝って小石川の水戸屋敷へ導かれます。その後、地中の導水管へと導かれ、現在の水道橋のあたりで掛樋となって神田川を渡り、 駿河台方面へと供水されました。関口に設けられた堰は、大洗堰と呼ばれます。上水の余水は江戸川となり、船河原橋(現在の飯田橋付近)より下流は神田川と呼ばれるようになりました。 神田上水の工事は、今でいえば一大公共工事だったわけで、多くの人間が工事に参加したのは言うまでもありません。松尾芭蕉のその中の一人だったと言われています。 その当時芭蕉が寝食を行った家が関口芭蕉庵として残されています
 江戸中期になると、玉川上水が建設され多摩川の羽村の堰で取水された水が、江戸中央部へと給水を行います。神田上水は、小石川地区から神田川以南の日本橋、京橋、大手町地区に供水していました。 また、本所、青山、千川、三田の4上水が整備され江戸周辺へと給水されます。こうして作られた上水道も明治の時代に入ると、水質悪化などの問題が発生します。 浄水施設を持つ近代水道の必要性が求められ、明治26年に工事着工。32年に改良水道工事が完成。神田上水は、明治34年6月30日にその使命を終えることとなりました